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ほりゆうじ / TAKEUMA EP


ほりゆうじ / TAKEUMA GP
(ENBAN)


 現在、map F/map A、両家の自宅で最もヘヴィ・ローテーションとなっているのが、この1枚だったりします。「そんなにいいのか?」と訊かれると、「いや、そんなにいいとかじゃなくって……」と口ごもりたくもなりますが、いや、やっぱりあまりに素晴らし過ぎるのです。本作をリリースしている円盤・田口氏によれば、「スナック菓子を買うように買ってくれないかなぁ」とのことですが、このアルバムは、本当に「やめられない、止まらない」スナック菓子のような音楽だったりするのです。
 姫路をベースに、編みかけセーターズ(これまた田口氏曰く、「聴いてるとセーターにくるまれてるような優しい気分になるんだよぉ」とは、至極名言)等で活動を続けているほりゆうじ。個人的には、これまで3回、生でほりさんを観たことがあるんですが、よく言われる「姫路のジョナサン・リッチマン」というのとは若干違う、のほーんとした緩い空気が場一面にじわじわと広がっていくゆるーい感じなのです。ただ、だからといって、気の抜けたようなものではなく。言葉ひとつ、その世界ひとつを耳かっぽじって、一言逃さず聴いていたいような、そんな気持ちをも聴く者に与えてくれたりも。一度聴いたら忘れられない旋律と、「あ、そんなところから言葉を持ってくるの!」とツボ突かれまくりの言葉に、「風景が広がる」のではなく、「狭い風景がはっきりと具体的に見える」感じなんですよ、とにかく。例えば、名曲「こんど引っ越すとしたらこの街だ!」はこんな感じ。

名前を知らない街を歩けば 心がはずむ胸おどる
昼過ぎに家を出て 夜更けまで止まらない
ああ この街のアパートの家賃はいくらだろう
(中略)
ああ この店で働けば時給はいくらだろう
ああ 近くにはコンビニもある電車も走ってる

 すげぇなぁ……と書いてみて、別にすごくない(笑)。でも、曲で聴くと、この感じがもう説得力がありすぎて、姫路の線路沿いの街を頭にはっきりと浮かばざるを得なかったりするんですよ。これぞ、音楽の勝利!

 あと、タイトルだけでも十分にその魅力は伝わるはず。「つい最近まであったコンビニが無くなっててショック」「雇わずにはいられない」(大名曲!)、「君は俺の嫁」……あぁ、永遠に聴いていたい“ほりワールド”。聴けば、姫路では地元のミュージシャンたちによって、トリビュート・トゥ・ほりゆうじのアルバムが完成したとの話も(近日入荷予定)。楽しいなぁ、なんか、めっちゃ楽しいなぁ。
 
「毎日カレーで構わない」

posted by aki

Black Dice / Broken Ear Record

blackdice
Black Dice / Broken Ear Record
(Astralwerks / DFA)


 もう、あんましグズグズ言いたくないですが、あれだけオシャレ業界で話題を集めた前作に比べて、お取り扱いが低過ぎやしませんか、ブラック・ダイスの最新作。もう飽きたのかしらん……っちゅうか、最初から何の興味もないんでしょ、こんな暴力的で(そして美しく強く訳分からん)音楽は。以上、愚痴終わり。
 ちょっと間が空いてしまいましたが、なんと素晴らしき哉、この1枚。正直言いますと、来日公演(六本木Super Deluxe)の演奏自体があまりにひどすぎて、彼らの音楽自体まで興味を失っていたのも事実なんですが、このジャケットを見たら買わなくちゃ、と。レインボー・カラーに彩られた訳の分からぬコラージュが目を惹きますが、内容もそのマンマの傍若無人なもの。ドラムのヒシャムが抜けたからというわけではないけれど、リズムは機械を中心にこれまでと比べてもより破天荒に弾けまくっているにも関わらず、旋律は時折日本の田園風景を想起させるような「のどか」なものだったりするのが、何とも可笑しい。初期のボアダムズとの比較もいたるところで囁かれているけれど、初期ボアのもうひとりのカリスマであった吉川豊人氏率いるグラインド・オーケストラ(2002年に残した2枚のアルバムは泣く子も笑う大傑作!)に近いように思えます。いや、ホント曲によっては完全にグラインド・オーケストラです! このファニー感(×バカ感)、そして極上の熱情。小さい音で聴いてもちゃんと体の芯にまで伝わってくるヒリヒリとした感触。
 そういえば、今から14、5年ほど前のこと。ニューヨークはCBGBで、まだ吉川さん在籍時のボアダムズを見たことがある。もちろん既にUSリリースはされており、ソニックユースの後押しもあって、広くもない会場には人でギッチリ。そのとき、割とハードコアやノイズ文脈でボアとか聴かれているのかなぁって思っていたんだけれど、よく見ればまだティーンエイジャーと覚しき、ちょいとナードな輩があちこちに見受けられたのが面白かった。「あぁ、そんな人たちにも支持されてるんや」って。
 ……と書いてみたのは、多分そこにいたナードなティーンエイジャーたちが、今のブラック・ダイスやアニマル・コレクティヴだったんだろうなぁ、と思うと感慨もひとしお。よく「〜の影響下で」なんちゅう言葉を聞くけれど、そんな甘っちょろいことじゃない。ボアダムズのような音楽(特に初期)をアルバムを通してではなく生で体感できたかどうか、というのはとても大きな出来事であり、肉体性がそのまま音楽の核として成立するということをティーンエイジャーで気付いた人間たちは、ここまで遠くに飛べるのでしょう。
 オルタナは一日にして為らず、気付くと20年、でも状況は一向に変わらず……ま、それはどっちでもいいかぁ。
posted by aki

Lightning Bolt / Hypermagic Mountain


Lightning Bolt / Hypermagic Mountain
(Load / P-Vine) 11/18 発売


 スピーカーから大爆音が流れ出た瞬間、ボリューム・ツマミを急いで左に回した俺は、きっと彼らの「いいリスナー」ではないのだなと感じたわけです。プロヴィデンスの大馬鹿野郎2人組ライトニング・ボルトの新作を聴くのに、ちゃんと心の準備をしていない俺が悪いんですよ。彼らの音楽を聴くに適切なボリュームはフルテンに決まってるじゃないですか。もちろん、日本の住宅事情でそんなものが許されるわけはないのだけれど……。
 もう5年ほど前になるのか、彼らの初めての来日を深夜の3時呆ぅけた、そして酔いつぶれた頭で観たときゃ、そりゃ狂うほど大喜びしたもんさぁ(昔話を語るおっさん風に)。ステージからフロアにドラムとベース・アンプを降ろし、ディストーテッドされた低音をフロアの客にぶつけまくる馬鹿1(ブライアン・ギブソン)とドラムとひとつ塊になりながら覆面にマイクをグルグル巻きにして叫ぶ馬鹿2(ブライアン・チッペンデイル)が、隙間をすべて点で埋め尽くすうねりまくった音を放出した瞬間、意味なく「ギャー!」と。そんな悲鳴を誰彼ともなく叫んでいたもの。そして、それは多分、世界中すべての場所で、そのアクトを目にした者達の最も素直な反応じゃないかと思うのです。で、普通ならばそれから5年も経って、で、結構アートスクール系の賢い輩ってバレちゃってて、できることとやりたいことがいろいろあるにも関わらず……彼らは本当にそのまんま突っ走り続けていることに、驚き、呆れ、そして、血が燃えたぎってしまうわけです。こんなダメダメ聴き手の俺でさえ。
 肉体の限界てのはどこかにあって、例えばかつて(ってもう15年くらい前だけどさ)ルインズだのペインキラーだの聴いたときに、「あ、ここらが最後かなぁ」なんて思っていたわけですが、それから15年以上経ってみると、未だ100m走の世界記録が伸びているように、まだまだ限界値は伸びているよう。そして、そのトップ・ランナーとして、このライトニング・ボルトやヘラのような存在があるのでしょう。アルバムを出す毎に、「あ、また0.1秒タイムが縮まってる!」なんて驚きと共に。
 しかし、これは言わなければならないことだけれど、本当はそんなことじゃない。彼らの音楽が、こうしてアルバムにおいてもなぜか聴けるのは、多くのノイズ・ミュージックにありがちな、「音の向こうから聞こえてくる何か」を想起させるようなものではなく、それらを完全に放棄しているということじゃないか、と。もちろん、細かな点描画で描かれたその世界からまったく別のモノを想起することもできるでしょう。しかし、そんな曖昧かつ豊かな思考回路を、肉体の興奮によってズタズタに寸断するような、そんな快楽が彼らの音にはあるように思えます。
 それゆえ、この音に正面から対峙するためには、この音を大声で笑い飛ばす如き体力も求められてしまうのではないか、と。そんな試験紙のようなサウンドを前にしてちょっと凍り付いた自分に、今、大爆音で渇を入れ直しているところだったりするのです。ここ数年、もう、その繰り返し(笑)。


posted by aki

Islaja / Palaa Aurinkoon


Islaja / Palaa Aurinkoon
(Fonal)

 フィンランドから届けられた、牧歌的で精霊の香り漂う歌声と、時折絡み合うエフェクトによって仕上げられた足下が弛緩したようなサウンド。安易にプリミティヴと呼ぶにはあざとさを感じさせる部分が多々あるけれど、それがかえってエンターティンメントとして「聴ける」理由にもなっていたりも。いや、中庸な言葉ではかえって誤解をまねくか。チューンの少し外れたギターのクリーン・トーンやアコーディオンに、幾重にも重ねられたフラット気味の女性ボーカルが隙間を埋めていく。オルガンや具体音は、この際ご愛敬といったところ。言ってしまえば、此処日本でも結構いる「少し不思議な女の子が精一杯作った実験作」。ただ、そんな軽く扱えないのは、幾つか気になる点があること。特に、この女性ボーカルの声をこのような「録り方」する理由だったりします。奇妙なコンプがかったようなこの鼻づまりな歌声。女性ボーカルの「美しさ」を捉えたいならば、最も遠い位置にある平坦な録り方を、なぜにするのだろうか、と。残念ながら前作を聴いていないので一概に言えないのですが、ほとんどすべての曲においてフィルターがかって(時には極端に歪んでさえいる!)いるこれらの歌を中心に配置する理由が、もしこの女性の意図なのならば、それが知りたいと思ったりするのです……いや、そんな深追いをするほどのものでもないのだろうか? どうでしょうか?
 ただ、こういう音に向き合うとき、「いい」とか「悪い」とか、そんな一般的な評価云々よりも、結局好きか嫌いかってことに帰結しちゃうと思うんですよ。なのにそれを無理くり「いい」か「悪い」か(ほとんどの場合、悪いとは書かないのだけれど)の理由を並べ立てられちゃってゲンナリすることがあります。確かに本作は、ある人々の心の奥とは共鳴させるような力を持っていると思います。ただ、「北欧」「見目麗しき女性」「プリミティヴ」……といったキーワードは、時にとても美しき世界を期待させたりもしますが、実際このアルバムに記録されているものは、もう少しベタな小さな「個」の世界のような気がするのです。「とある女性のとある感情切り取った心象風景」のような空気感は楽しめるものの、「曲」としてひとつも成立していないという点が、個人的にはどうしてもこの音楽を心から愛せない理由だったりします。すいません。

posted by aki

Justin Heathcliff / Justin Heathcliff

Justin
Justin Heathcliff / Justin Heathcliff
(warner / Bridge) 10月28日再発


 歴史は、いつだってその過渡期の混沌とした状況こそ面白い。そして、そこで産まれた多くの誤解が、後の時代の人々の手で拾われ、そして丁寧に磨き上げられていくのだと。
 60年代終わりから70年代初頭の5年は、多分レコーディング・テクノロジーという意味で言えば、もっとも劇的な数年間だったと思うのです。そして、その進化の恩恵を背に受けてビートルズはあれだけ奇跡とも言える作品群を生み出したわけで(それが5年、前後どちらかにずれていたら、きっとポップ・ミュージックは異なる方向に足取りを進めていたのでしょう)。それまで録音が“演奏をダイレクトに捉え”るためにあったのが、2tr〜3tr、4tr〜8trと年々倍々ゲームでマルチ・レコーディング化が進み、“現実にあり得ない音”をポップ・ミュージックの中に注入していった時代。NHK「アーカイヴス」で語られるような、万博の風景以外はまだモノクロの世界。
 そんな70年代の幕開け、ビートルズの『サージェント・ペパーズ〜』に拮抗すべく、東芝のスタジオにこっそり忍び込み、夜な夜なレコーディングを続けていたミュージシャンとエンジニアがいました。それぞれ、まだ20歳を越えた表情にあどけなささえ残る若者。ひとりは、今やニューエイジ・ミュージック界における超VIP喜多嶋修、そしてもうひとりは日本におけるフリー・エンジニアの第一人者吉野金次、その人。当時ランチャーズ(加山雄三のバックも務めていましたね)をちょうど解散したばかりの喜多嶋が、“海外に売り込むためのソロ用デモ”として作り始めたのが、そのきっかけ。しかし、世の中にはレコーディングのノウハウというものが欠片も存在していないそんな時期。「アコギのスウィート・スポットはどこだろう?」「バスドラの背の蓋を取った方が洋楽のロックな音がする!」なんて会話をしながら、ほとんど喜多嶋の多重録音でわずか3trのマルチ・レコーダーをピンポン(当時はバウンスと呼んでいたけれど)し続けて編み込まれたのが、このJustin Heathcliffの唯一の音源なのです。
 ここには、ある種“似非”サージェント・ペパーズな風景ももちろん広がっていますが、それ以上にワンマン・ビートルズとしてほんの一瞬だけスターダムに躍り出たエミット・ローズや、完全宅録で作られたポール・マッカートニーの1stとまったく同じ匂いがするのです(吉野さんに話を聞いて、まったくその通りだということが判明!)。しかし、ここで聞けるのは、そんな“〜風”の世界ではなく、思い通りにいかなかった部分(テクニックだけでなく機材の限界ももちろんあったでしょう)にこそ、心が揺さぶられるのです。多層に重ねられたがゆえに奥に引っ込んでしまったボーカルよりも曲を牽引する力を持ったやけにいい音のベース、録りの段階でプレート・エコーをかけ続け、それを幾重にも重ねたことによってやたら荘厳な響きとなってしまったストリングス、英詩で歌っているにもかかわらず、時折顔を出してしまう純日本風の旋律。そんな予定外の部分が、今聞くととても愛らしく、そして力を持って響いてくるのです。
 実はこの作品、東芝に忍び込んで録音されたにもかかわらず、なぜかワーナーから発売(その件で東芝のスタジオ・エンジニアだった吉野さんは退職を余儀なくされます)、しかしほとんど宣伝されず800枚程度売れただけで廃盤になったのです。しかし、海外のめざといサイケデリック・マニアたちの口コミでこの作品の噂が一人歩きし、結果、ドイツより海賊盤がリリースされたり、98年にリイシューCD化された作品が高値でオークションにかけられたりしているという事実。しかし、実際聞けば分かる通り、この作品はまったくサイケデリックなものではありません。言ってしまえば、とてもいい旋律を持った、いいアレンジを持った、いい録音を持った、時代を代表するポップ・ミュージックなのです。
 この作品を聞いて細野晴臣が吉野金次にはっぴいえんどの録音を依頼したという逸話も持つ日本の録音史における金字塔的作品……なのでしょうが、そんなこと、実はどっちでもいいです。それよりも、それ以前の音楽や風潮に対して、“どうだー!”と叫びながら戦っているような20歳の若者の躍動と誤解と才能が、あまりに瑞々しく、なんだかとても心地よい気分になれるのです。
 

 
posted by aki

Freakwater / Thinking of you

freakwater
Freakwater / Thinking of you
(Thrill Jocky)


 Thirill Jockyって、トータス以降ポストロックの牙城なんちゅうイメージがついてしまったけれど、Thirill Jockyの魂って、このフリークウォーターですよね!とよく話したりしてます。ここ日本では洗練されたレーベルに見えてるけれど、踵についた泥は拭いきれない、そんな不器用な感じが好きだったりするのです。実際、Thrill Jockyのオーナー、ベティーナ・リチャーズがメジャーのA&Rからレーベルを立ち上げる時の同志が、イレヴンス・ドリーム・デイ(そういや20周年記念盤が出てましたね)であり、メンバーであるダグ・マッコームズ(って最近こう呼ぶんですな)やこのフリークウォーターだったわけで、その友情と信頼が15年近く経った今も続いているっていうこと自体が、とても素敵なことだと思うのです。そういや、最近フリークウォーターのジャネット、キャサリン両嬢のソロも出てますね。イレヴンス・ドリーム・デイ、最近もやってるのかなぁ。検索検索……あ、先週金曜日にシカゴでライヴしてますね。共演は、The dB'sって……ぅええええええ! The dB's が復活してる! ピーター・ホルサップル、ウィル・リグビー、クリス・ステイミー、ジーン・ホールダーって、完璧やん。吉本栄さ〜ん、見に行かなくちゃ(笑)。いやもちろんご存じですよね、2日に1度The db's onlineをチェックしていますよね。あ、新曲も聴ける。うっわー、そのまんま若々しい。
 と、関係ないところで興奮してしまいました。とにかく、このフリークウォーターです。新譜です。これがですね、もう堪らないほどグッとくる、いつもにも増して“ど”カントリー・アルバムです。その歌声、旋律共に、スタンダードなスタイルの中で、どこまで「いい曲」を聴かせることができるか、もはやその当たり前のところで音楽と向き合っています。ジャネットとキャサリン、その歌声の違いがハーモニーにおいて絶妙の濃淡となって、静かに、とても静かに染みいったりするのです。
 そして、今回のバックを務めるのは、キャリフォンの面々、いやほとんど今のメンバー全員参加していますね。言ってしまえばキャリフォンをバックにフリークウォーターが歌う、的な作品。しかし、ここで聴けるキャリフォンの演奏は、自らのバンドで見せる歪みのあるアコースティック・サウンドではなく、どこまでも“本物”のバンド・サウンド。ツボに入り込むスライド・ギター、遠くで鳴り響くオルガン・トーン、軽妙なオブリを加えるフィドル、カントリーの聖地ナッシュビルの辣腕たちを想像させるような、無駄のない激渋のプレイで支えてくれます。なんだかボブ・ディランを支えるザ・バンドみたいになってきたなキャリフォン。新譜はまだなのか、ティム。
 いわゆる“生活スタイル”としては、ここ最近のオーガニック・ブーム(か何か知らんが!)でアーリー・アメリカンだのカントリー・スタイルだの結構普通に受け入れられているんでしょうが、なんでカントリー・ミュージックには、こう“壁”ができちゃうんでしょうか? 確かに、言葉も分からぬ自分にとっても、未だ遠い国の音楽ですが、結構心地よい音楽だと思うんですけれどねぇ。微妙な角度で狂ってるし。
 すべての人の耳に馴染むとは思えない音楽ですが、ちょっと心を落ち着けたい日曜の夕暮れに、はまりこむようなそんな作品であります。

posted by aki

北村大沢楽隊 / 疾風怒濤!!!

北村大沢楽隊
北村大沢楽隊 / 疾風怒濤!!!
(off note)


 高円寺の奇所、円盤・田口氏とは、数年に一度、やけに気持ちがリンクすることがあるのです。普段は、やっていることも違えば、考えていることも違う。もちろん彼の音楽に対する情熱とクールネスにはかなわないけれど、他の誰も話題にしていないがふと自分を捉えて離さない音楽があって、田口さんにそれをふってみたら、入り口は違えども同じ部分がやけに気になっていることが多いのです。彼との出会いも、俺が“「うたもの」って言葉で説明しにくいけれど、結局はすきすきスウィッチをもう1度聴きたいだけなんですよね”という言葉からだったし。今から8年ほど前、誰ひとり佐藤幸雄のことなど語るどころか忘れきっているその時期に。
 この“北村大沢楽団”もまさにそうでした。大好きなレーベルoff note(このレーベルについても田口さん以外とは話す機会がないよなぁ。最高なんだけれどなぁ)から突如リリースされたこの作品。もちろん、名前も知らなければ、ジャケにはただおっさんが稲田をバックに“ぼー”って写ってるだけ。それもおそろいのスーツを着てね。でも、それだけでもグッとくるヤツはグッとくるじゃないですか。「あぁ、これは田舎町にいる隠れた名ブラスバンドなんだろうな」って感じで。で、軽い気持ちでCDをプレイヤーに乗せた瞬間、正直、躯が凍り付きましたね。いや、なんだろう、この感覚。もうざわざわしてくるようなこの空気。いや、最初に言っておきますが、演奏はとんでもなく下手です。強烈な演奏にビビったとかじゃなくて、でもいわゆる「下手ゆえのピュアネス」とかそんなありきたりなものじゃなくて、とにかく「すごいモノ聴いてもた!」って気持ちでいっぱいになったんですよ。分からない、何か分からないけれど、自分の心の中でグルグルと何かが回る感じ。で、翌日、円盤に遊びに行ったらもちろん置いてあって、田口さんに「あ、これ……」って言いかけた瞬間に「すごいよね!」とユニゾン。彼も同じように、このアルバムに、音楽以外の「何か」を見つけてしまった感じだったのです。
 
 このアルバムについて、ちょっと説明は必要。この北村大沢楽隊、平均年齢70歳超のブラスバンド。関西を中心に活動している“ちんどん通信社”の林さんがたまたま北海道のホテルで見たテレビが話の発端。何やら運動会の徒競走とか、そんなもののバックで音楽がかかるじゃないですか。ちょいと景気のいいやつ。あれをオッさんたちが生演奏しているのをテレビで見たらしい。で、最初は俺と同様、そのへたっぴいな演奏に笑っていたんだけれど、聴けば聴くほど「何か」を感じてしまい、この人たちを探し、出会い、そして録音を果たした、というわけ。
 そして記録されたこの音は、今まで頭の中にあったブラスバンドとは全く趣を異にするものでした。実際、リズムはグダグダ、もうそのオヤジの性癖まで分かりそうな勢いで奏でるクラリネットやトランペット等が、てんでバラバラに。次のフレーズを手探りでおっかける輩もいれば、間違ってるのに突っ走る輩もアリ。でも最後にゃひとつ方向に突き進んでいる音楽的にはジンタやチンドンの流れを組むもの、だけれど、この演奏は、運動会や祭りにおいてのみ演奏されるもので、彼ら自身も音楽家という意識すらないのだと思うのです。事務所で福田君と共に聴いた際、「これって、演奏が全部終わった後に飲むビールが一番楽しみなんやろうね」って話したけれど、まさにそんな感じ。大笑いで聴けるし、とてつもなく楽しい。でも、それだけではないのです。心の中でもやもや。
 言ってしまえば、日本中“どこにでもある”音楽なのです。これは宮城県の5人組なんだけれど、記録されていないだけで、大分にも福井にも、北海道にも、こんなことを趣味でやってるおっさんたちはいるはずなのです。ただ、それなのになぜこの音源が、自分の心を揺するのか、その理由がなかなか見つけられなかったのです。
 そんなとき、FMN Sound factoryのBBSでこれに関する田口さんのコメントに、まさに自分の思っていた「何か」を言葉で説明してもらったような気分になったのです。無断で引用してみます。
 
 「記録メディアの爆発的普及によって、録音物を再確認することが(主にその圧倒的な量によって)、身近なものでさえも困難になってきた現在、再び口伝による音楽の伝承という形に注目しています。オルタナティヴと括られるような音楽であったとしてもこうした伝承の形は個人レベルではそこかしこに小さな形で存在しているはずです。それには演奏する「場」が不可欠です。それは運動会かもしれないし、カラオケボックスかもしれないし、誰かの家かもしれないし、ベアーズやブリッジかもしれないし、円盤かもしれません。(中略)この音楽を「CD」として聞いてしまった「音楽マニア」の僕ですが、これがそういう形で残らなかったとしても、それによって僕が彼らの音楽を実際に耳にすることができなかったとしても、ちっとも不幸ではないと思います。ひなびたスナックの常連客で酔うと物凄いギターを弾くオヤジがいて、そのオヤジのギターを数人の常連客だけがしみじみと聞いている、ということだってたくさんあると思います。実はそれを耳にしているはずなのに「音楽マニア」の耳が実生活の中でそれを「聞いていない」ということの方が多いような気がします。つまり、「北村大沢楽隊のCD」は確かに特別ですが、楽隊の存在を特別としてしまうのはどうか、と少し思うのです」
 
 まさにその通り、と乗っかってしまいましょう(笑)。加え、本来ならば、「宮城県の運動会」にしかありえなかった音が、今ここにこうしてあることに異物感を感じたことが、心をもやもやとさせた理由なんじゃないかなと思うのです。なんちゅうんですか、リビングに便器が置かれている感じというか(いや、それは違うだろ!)。ただ、この異物感は、もしかして初めてレコードを聴いた人と同じ気持ちなんじゃないかな、とさえ感じたりもしています。そして、「CDやレコード」というものがこの世から消え去ったとしてとも(いや、これは極論なんですが……)、音楽が死んだわけではない。音楽は人がいる限り永遠に存在するだろうし、その場所に足を運んで聴けばいいんだと思っている自分の今の気持ちを、このアルバムは再確認させてくれた、ということじゃないか、と。だからこそ、この作品は、今の自分にとって、とても大事なものだったりしているのでしょう。
 
 ちなみに、このアルバム、『MUSIC MAGAZINE』では見事に0点を獲得! また、北村大沢楽隊、現メンバーには北村さんも大沢さんもいません。あしからず。
 
 
 
 
posted by aki

Devendra Banhart / Cripple Crow

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Devendra Banhart / Cripple Crow
(Young God / XL)


 追えば追うほど、彼はどこまでもどこまでも先へと進んでいく。その歩みは、想像を越えた速度で、今、他の追随を許さぬ場所にまでたどり着いたのです。このわずか1年の間、数多くのツアーはもちろん、Vetiverへの参加やヴァシティ・バニヤンの再生、愛するココロージーのお手伝い等々、数多くのコラボレートを続けながらも、こんなとんでもない作品を作り上げてしまったことにも驚かされますが、もはやアメリカン・ルーツでもカントリー・ブルースでもアシッド・フォークでもなく、それらをすべて内包するかのような大きく、力強い世界へと……いや、そんな安い言葉じゃ説明できないですね、これは。もはや、鬼、の領域。いや、マジでそんな感じ。
 これまでのシングル、そして世界的に大絶賛された2枚のアルバムは、彼の強烈な個性の中で「ヴォーカリスト」というひとつのピースでしかなかったことが手に取るように分かります。例えば、多くのプレスが彼の形容詞として謳ったティラノザウルス時代のマーク・ボラン的アシッドな世界……それは、これまでのアルバムが、彼のギターと歌というシンプルな構造を骨格としていたゆえの誤解だったのでしょう(数多くのインタビューで、彼はその形容を否定し、はっきりとした嫌悪を示しています)。また、アメリカン・ルーツの先人たちとの比較は、彼の軽妙なフィンガー・ピッキングと音楽史に対する深い知識ゆえかもしれません。しかし、彼の頭の中に響いていたのは、そんな「既にある世界」ではなく、それを飛び越えた場所だったのです。
 これまでの自ら手描きのアート・ワーク(素敵だ!)から、Cripple Crow(不自由なカラス)を意味する奇妙なカラスのコスプレをセンターに、全員がヒンドゥー教のティラク(あのオデコの赤い点ね)を付けた訳の分からぬコラージュを配置。この「謎」としか言いようのないアルバム・ジャケットが、この作品のサウンドをはっきりと示しています(これって「サージェント・ペパーズ〜」というよりも、インクレディブル・ストリング・バンドの「ハングマンズ・ビューティフル・ドーター」の引用ですよね、多分)。で、それは、極論ではあるけれど、本当の意味でのサイケデリック、を意味しているのでしょう。もちろん、ここで言うサイケデリックとは、音楽のジャンルではなく「意識を覚醒させる」という意味なのだけれど。
 もちろんヴォーカルはこれまで以上にメロウで呟くが如し。そしてその饒舌な歌い口を、新旧優れた手練れたちが丁寧にフォロー、未曾有の花畑が地平線の向こうまで一気に広がったような、そんな大きな音楽が産まれています。帯同者は、かつてリリーズにおいて、今の時代にゾンビーズmeetsキンクスな捻れポップ・ワールドを作り上げた職人トム・モナハン(パーニス・ブラザーズ)、デヴェンドラ自身が「最も敬愛するギタリストの1人」と賞賛を捧げるThe Pleasedのノア・ジョージスン(ちなみに彼は、ジョアンナ・ニューサムの彼!)、そしてVetiverの才人アンディ・キャビックの3人。もう、何ともツボを突いた人選。トム・モナハンの技と覚しき、絶妙なストリングスやコーラス・ワークが、彼の色気のある言葉にしっかりと絡みつくと思えば、ファンキーなギター・フレーズが飛び出したり、バブルガムな色彩が彩ったり(それともこれはラリーズか?)。加え、ストーンズの「サタニック・マジェスティーズ」を思い起こさせる肩の力が脱臼したお花畑もあり。また、そんな何かしらの引用を求めるならば、ニール・ヤング的だったり、ラヴィン・スプーンフル模様だったり、ヴェルヴェッツ旋律だったりと、結構さまざまな分かりやすい意匠を引用しています。ただ、それらは聴く者を惑わせるための引用ではなく、彼個人の中で完全に咀嚼され、血となり肉となった産物なのではないか、と思えるほど堂に入ったもの。なんと全22曲(78分!)というCDいっぱいの世界の中で、とてつもなくピースフルな世界が展開されているのです。
 もちろん、そんな濃厚なモノばかり飲まされていたら胃がもたん、という訳ではないけれど、後半に向けて、シンプルなギター・ピッキングと歌だけの楽曲も収めているところがニクい。最後に朴訥なピアノ曲を置いてみたり、ディレクションもすべてが完璧。いや、もう天才ですよ、まいった。まいった。
 枠および造形としては完全なるポップスの構築法、なのに「ポップ」とか「軽み」なんて言葉を有無を言わさず拒絶する力に、もはや屈服するしかないわけで。チャクラ開きまくりの1枚。嗚呼……。
 
posted by aki

Flanger / Spirituals


Flanger / Spirituals
(nonplace / HEADZ)


 アトムハートってお嫌いでしょうか? 俺はものすごく好きです。一時期、彼のタイトルを追っかけ続けていたんですが、もう、あまりの多作っぷりについていけず、あきらめた私。しかし、そのすべてがすべて、駄作ナシ、同じやり口は2度とない、というその肩幅の狭さには似合わぬ怪物っぷりをいまだ見せつけてくれます。10年ほど前にインタビューした際にも、若々しさの欠片もない(あ、細野さんと話すときは子供みたいだった!)老成っぷりに驚いたんですが、先日のドイツ年イベントのセニョール・ココナッツの脇で、蝋人形のように動きを止めていたのも印象的でした。
 そんなアトムハートの数々の関連ユニット(ほとんどは南米でひとりぼっちユニット)の中でも、特に異彩を放っているのが、このバーント・フリードマンとのコラボ・ユニット「フランジャー」ではないかと。バーント・フリードマン自体は正直得意じゃない作品も幾つかあるのですが、その才の高さに圧倒されることもしばしば。しかし、このフランジャーは、バーント作品の中でも少し異なる地点に置かれているようで、アトムとのコラボレートという以上に、「過去の音楽スタイルをインスピレーションとして用いる」というコンセプトの上に成立している、そう。それゆえ、これまでの作風が、ある種クラブ・ミュージックの文脈の中で消化されてきたわけですが、それはあくまでも「コンセプトとしてのクラブ・ジャズ、エレクトロニック・ミュージック」だったよう。そして、本作『Spirituals』は、これまでの4作が、ここに来てようやくその「意味」を分かりやすく理解させてくれる素晴らしい作品に仕上がっています。
 スピーカーから流れ出すのは、従来のエレクトロニック・ミュージック然としたスタイルとはまったく異なる、はっきりとした「スウィング・ジャズ」。それも「〜風」なものではなく、まったく「スウィング・ジャズ」そのもの。バーントのインタビューでは、ジャンゴ・ラインハルトに影響されたとのことだけれど、ジャンゴというよりも、誰もが脳裏に描き出すことができるティピカルなスウィングをそのまま楽曲として形にしたかのよう。クリーンなトーンのギターが流麗にメロディを紡ぎ、オーボエやクラリネット奏者の伊達男姿が手に取るように見える、そんな音楽。はっきり言って、別に彼らが演奏する必然性はなにもないようにさえ思える完璧なまでの世界観。ウチの親爺にだって聴かせられますよ、これだったら!
 しかし、ここに彼らの凄みがあると思うのです。以下は完全な私見です。
 電子音楽が電子音楽として成立するのではなく、ポピュラー・ミュージックの世界の中に立脚し始めたとき、最もその効能を発揮したのが「音を模倣する」ことだったはず。例えばシンセのプリセット・サウンドのように、何かの楽器のシミュレートを行なうことで、大きな広がりを見せていったわけです。しかし、初期のシンセサイザー(とそれを操るテクニック)では、ごく一部の冨田勲のような偏執狂的なオヤジを別にして、ほとんどの場合「チープな代用」としてしか成立し得なかったのです。もちろん、そのイビツさは、今聴くととても面白いのですが、かつては完全なるシミュレートは無理だったわけ。しかし、PCM音源の発達以降、完全なるシミュレートが可能になった……と所謂、音楽機材史ではそう伝えられるわけですが、聴けば分かる通り、人の耳は恐ろしく賢く、それさえも見極めることがいとも簡単にできるのですよ。「あ、これサンプルね」だの「あ、いい音のPCM音源だね」なんて風に。で、それゆえ、多くの電子音楽家は、夢破れ、シミュレート云々ではなく、電子楽器の能力をより引き出すべき世界へと船をこぎ始めたのです。今や、「シンセでオーケストラがやりたいんだ!」なぁんて抜かす輩はいないですもんね(20年前は山ほどいたけれど……)。
 しかし、そのシミュレートを求めた電子音楽には、大きな間違いがあったことに今になって気づかされるのです。彼らが失敗した原因は、その機材の性能でも演奏家や録音の技術でもなく、「過去の何かを引用する」という安易な「感覚」が問題だったのではないでしょうか? そして、自身が「引用する」という感覚で作り上げる限り、幾ら表層は恐ろしく似ていても、確実に人の耳に「聞き分けられる」結果になるのです。これは、オカルトでもなんでもなく、経験則として分かりますよね。そんな中、例えば、それに気付いたアトムは、ある方向性を見いだすのです。セニョール・ココナッツ名義で、既にラテン・ミュージックの世界に首までどっぷりとつかり、その演奏家になりきった気分でPowerBookのキーボードを操作し始めたのです。その結果があの音、あの音楽。そしてライヴを聴いて(そしてあの演奏家たちのラテン気質っぷりを見るにつけ)、あれが「引用」や「シミュレート」の世界にいるとは誰も思わないでしょう。肌の色が白いインテリだけど、彼はあの場所では、まがう事なきラテン・ミュージシャンだったのです。
 で、このアルバムに戻ります。バーント・フリードマン、そしてアトムが向き合った大きな音楽的資産でもある「スウィング・ジャズ」、これを心から愛し、そしてその精神性にまず焦点を合わせたようです。先人たちの音から滲み出るプロフェッショナルなエンターティナーっぷり、そして楽しく演奏することを心がける、というスウィングの魂。その音楽の「核」にたどり着くことが、技術を大きく凌駕して、「そのもの」になり得るということを、音ではっきりと証明したわけです。
 このアルバムには時折電子音風なものが現れたりもします。また、丁寧なサウンド・エディットも施されていることでしょう。しかし、問題はそんなところにはなく、この作品がどこまでもスウィングしているという事実。そして、彼らは既にその手法を自家薬籠中のものにしてしまっているという恐るべき事実、なのです。
 音楽には「時代の匂い」が常にこびりついてしまうもの。だからこそ素晴らしいし、だからこそ愛情を注ぐことができる。しかし、このフランジャーの『Spirituals』は、まったくいつの時代のものか分からぬ、そんな手触り。この音楽が何を意味するのかは、まだまだ俺には分からないけれど、とにかく、今はこの凄さにどっぷりと浸かって楽しんでみようと思うのです。


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13 & God / 13 & God


13 & God / 13 & God
(anticon)


 えっと、こういうことは気をつけて書かなければならないんですが……。
 
 これって……そんなに面白いですか? 
 
 いや、書き方間違えているな。でも金払ってちゃんと買ってるんだから、それくらい言ってもいいよね。Themselves+The Notwist、そしてアンチコン・クルー数名によるこの友情ユニット13&Godですが、ちょい前に買って数度聴いたんですが、この作品を手放しで絶賛する理由が分からないのですよ、俺は。もちろん、魅力的な部分は幾つかあります。例えば、ラップでもボーカルでもない、奇妙な歌声を丁寧に貼り合わせたハーモニー、そして先にこれらの「声」を骨格に配置して全体を構成したとも覚しきトラックとの絡み合い、等々。この声のバリエーションの豊かさは、流石にThemselves(というかDose One?)らしく、多くを語るまでもなく、聴くものの耳を捉えます。M4の「Perfect Speed」などは、誰が歌っているかは分からぬが、呟くような歌声もなかなか堂に入っていて、拙いメロディなれど心染みいる世界を展開していたりも。ただ、全体のトーン自体は普通じゃないですか? っちゅうか、他のアンチコン作品と比べて、見劣りしないですか、どうですか?
 アンチコン作品のすべてを肯定するわけではないけれど、彼らの音(それはどのユニットにおいても)に常に存在する「陰」の部分、そして、その陰の色や形状が、ユニット毎に異なる姿を持っているのが彼らの魅力だったりする。それは、彼らの拗くれた性癖だけではなく、非常に意識的な行為だとも感じられます。それは、ときにフリーキーだったり、ときにはオールドスクールへの真摯なる愛情だったり、ときにポップ・ソングへの憧憬だったり、陰影に深みを与えるほどの「何か」が常に存在していたと思うのですよ。それは、俺のようにヒップホップの深さを知らぬ人間でさえも、「あぁ、この角度がイビツなのがいいなぁ」と思えるほどの何かだったりして、そこに琴線を震わされたりしていたわけです。もちろん、彼らのライムの軽妙さや、個人的にはWHY?(Yoni Wolf)の才覚の確かさに刺激を受けたりもしていたけれど。
 しかし、この作品には、はっきり言ってそれ以上のモノを期待していたわけです。The Notwistとのコラボだからね。でも、ここにあるのは、ちょいと暗めの雰囲気を装った、「単なる」90年代以降のエレクトロ・ミュージックのように思えるのです。21世紀にすら入ってはいない。The Notwistが嫌いな訳じゃないけれど、彼らの音(それはLali PunaやMs.John Sodaを含む……Tied & Tickledはちょっとちゃうかもしれんが)は決してスタンダードな道筋から外れるものではなく、伝統的な電子音楽、エレクトロ・ポップスの流れの亜流でしかないように感じています。だからこそ、その「分かりやすさ」が多くの人の支持を集めているのだとも思いますが。もちろん、その中には美しき瞬間は当然あるけれど、彼らの生真面目さがアンチコン・クルーのイビツさの角をちょいと取ってしまったかのような、そんな感触の音に聞こえるのです。例えば、前半で聴ける意味なくジャズ・テイストを見せるピアノ・トーンや、暗さを強調するストリングス・アレンジ等々、「分かりやすさ」「音楽における普遍的な共通言語」がかえって、これら音の深味を失わせているように感じられます。また、Lali Punaの現在の受け止められ方自体、ちょっと過大評価されすぎているようにも思えるし、せっかく世紀末に美しき広がりを見せたエレクトロ・ミュージックの可能性を、また逆戻りさせているようにも思えるのです。もちろん、この点に関しては、もっと多くの言葉を費やして説明しなければいけないので、またいつか。
 ただ、これらは好き嫌いもあるので、何とも言えません。ただ、このアルバムを絶賛するならば、その理由を誰か教えてほしいところだったりします。自分が気付いていない、そして聴けていない何かがあると思いますので。
 もちろん、10月の来日では彼ららしい狂ったステージを見せてくれると思いますので(残念ながら、俺はハウ・ゲルブのツアーとバチ被って見ることはできませんが……)、ぜひぜひ。なにやら、京都メトロでは13&Godとハースペ、アメリカン・アナログセット(好き!)が競演するとの話。こりゃ豪華でゲスなぁ。
 と、ちょっと否定的なことになってしまいましたが、本当はこの作品のレビューを書いたのは、なぜ最近この「赤幕」ジャケットがやたら流行っているのか、ということを書きたかっただけ(笑)。エミネムの名盤に始まって、スリーター・キニーやニュー・バッファロー(サンズ&ドーターズのサンプルもそうだった)等々。で、ちょいと並べてみました。これまた、誰か、理由を知っている人、教えてください、ヨロ。






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